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比較は敵か、味方か。

  • hirovideocreator
  • 21 時間前
  • 読了時間: 5分

〜 劣等感と優越感を、成長の燃料に変える方法 〜




はじめに


人はいつ何時も、比較をする生き物だと思っています。

それは意識的であれ、無意識であれ、完全にやめることはできません。


なぜなら私たちは一人では生きていないし、モノもコトも、

常に複数ある世界の中で選択し続けているからです。


まず「比較」とは何か。

辞書で引いてみると、

「2つ以上の対象を同時に観察し、それらの共通点や相違点、性質、効果、特性を明らかにする行為」

とあります。


つまり比較には必ず複数の対象が必要です。

ここに比較の厄介さがあると私は思っています。


もし比較が一つの事柄だけで完結するなら、思考も行動も、もっとシンプルになるはずだからです。


しかし現実はそうではない。

私たちは常に、誰かと、何かと、自分を並べてしまう。


今回は、プラスにもマイナスにも働く「比較」について、少し掘り下げて考えてみたいと思います。


▼ この記事でお話しすること

  1. 他人が上にいるときに生まれるもの

    人は無意識に他者と並び、自分の位置を確かめながら生きているという事実。

  2. 自分が上に立ったときの落とし穴

    他人との差は、自分を否定する材料にも、成長のヒントにもなる。

  3. 自分との比較という選択

    上に立ったと思った瞬間、成長は止まり始めるという危うさ。

  4. 理想の自分との比較

    他人ではなく、過去と未来の自分に基準を戻したときに見える本当の進歩。

  5. 勝者と敗者をつくらない比較

    優劣で世界を二分せず、それぞれの強みを認め合うという比較の使い方。






  1. 他人が上にいるときに生まれるもの




例えばあなたが野球選手だったとします。

同い年で自分より評価されている選手がいる。

実力も実績も上。


このとき生まれるのが「劣等感」です。

しかし劣等感には2種類ある。


ひとつはマイナスの劣等感。

差を見て、「自分はダメだ」と思ってしまう。

技術の差を、人格の差にすり替えてしまう。


そこから生まれるのは、不安自信の欠如僻み妬み。

やがてその感情は、パフォーマンスを奪っていく。

これが、比較に飲み込まれる状態です。


しかしもうひとつ、プラスの劣等感があります。

差を認める。

相手の凄さを素直に認める。

そして冷静に考える。


「何が違うのか?」

「自分には何が足りないのか?」


差を自己否定ではなく “情報” として扱う。


劣等感そのものが悪いのではありません。

差をどう解釈するかが、未来を分けるのです。



  1. 自分が上に立ったときの落とし穴




では逆に自分が優れている側に立ったときはどうでしょうか。


評価される。

結果が出る。

周囲よりできている。


そのとき生まれるのは、優越感です。

一見ポジティブに見えます。

しかし、ここにも落とし穴があります。


優越感は慢心を生み、他者への敬意を薄め、成長を止める。


「もう十分だ」と思った瞬間、進化は止まる。

劣等感が人を止めることもあれば、優越感が人を止めることもある。


比較はどちらに転んでも危険を含んでいるのです。



  1. 自分との比較という選択




では比較をやめればいいのでしょうか。

正直に言えばそれは難しい。


人は社会の中で生きる以上、比較から完全に自由になることはできません。

ならば何と比較するのか。

ここで私は自分自身との比較が重要だと思っています。


過去の自分。

半年前の自分。

1年前の自分。

カナダに行く前の自分。


カナダに行った当初、英語はほとんど話せませんでした。

周囲との差を感じることも多くありました。

けれど今振り返れば、確実に前に進んでいる。


過去の自分との比較は、純粋に「積み上げ」を確認できる比較です。

他人との比較は競争を生みますが、自分との比較は成長を生みます。



  1. 理想の自分との比較




しかしもうひとつあります。

理想の自分との比較。

まだ到達していない未来の自分。


理想は方向を示してくれる。

努力の軸にもなる。

けれど扱いを間違えると常に不足感を感じ、

今の自分を否定し続けることにもなる。


理想は引き上げる力にもなれば、押し潰す力にもなる。

だから私はこう考えています。


理想の自分と比べて方向を決める。

過去の自分と比べて成長を確認する。


この順番を間違えないこと。




  1. 勝者と敗者をつくらない比較



もうひとつ大切にしたいことがあります。

それは相手と比較して「勝者」と「敗者」を決めないこと。


比較をするとどうしても優劣をつけたくなります。

どちらが上か。どちらが下か。


けれどその瞬間に世界は二分されます。

勝った側と負けた側。


そしてその構図は、必ずどこかに負のオーラを生みます。

僻み、慢心、対立。

勝者と敗者を決める比較は、短期的な刺激にはなるかもしれません。


けれど全員を勝者にする比較は、長期的な成長を生みます。

本来、比較とは「違い」を知る行為です。


違いを知ることは、奪い合うことではなく、補い合うこともできる。

相手の強みを認める。

自分の強みも認める。


そうすれば勝者と敗者を作らなくてもいい。

それぞれの土俵でそれぞれが勝者になれる。


比較を競争ではなく理解に使う。

これが一番、負のエネルギーを生まない方法なのではないでしょうか。




まとめ



比較はなくなりません。

人は社会的な存在である以上、常に誰かと、何かと並べてしまう。


だから大切なのは、

比較をやめることではなく比較を設計すること。


何と比べるのか。

どの軸で比べるのか。

差をどう解釈するのか。


比較は自分を壊す刃にもなれば、自分を磨く刃にもなる。

そしてその刃を奪い合いに使うのか、共に高め合うために使うのか。


それを決めるのは、いつも自分自身です。

私はこれからも比較します。


優劣で自分を裁くためではなく、前に進むための材料として。

比較に振り回されるのではなく、比較を使いこなせる人でありたい。


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